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高 潮社長 & 高 裕一取締役親子インタビュー
ハイケムのこれまで
ハイケムのこれから
1998年に設立したハイケムは、4月に25周年を迎えました。前身のコンサル会社「21世紀商事」からいえば、11月には30周年を迎えます。高社長と高 虹取締役が立ち上げた小さな会社は、今や従業員数は600人に迫り、売上高は1千億円を突破するまでに大きく成長してきました。コンサル業、貿易事業、そして化学メーカーへと事業の幅を広げてきた、その道のりに何があったのか。これからのハイケムが目指すものは何なのか。高 潮社長、高 裕一取締役の親子に、この節目を記念し、ハイケムの歩みを振り返ってもらいながら、明日のハイケムを語っていただきました。(聞き手:日刊ケミカルニュース 宮本 直明)
ハイケムの前身は
「21世紀商事」になりますが、
日本で起業しようと思われた、
その経緯をお聞かせください。
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社長
- 大きな転機となったのは1993年の10月、契約社員の研究員として勤めていた三菱油化(現・三菱ケミカルグループ)と、三菱化成(同)の間で合併の話が持ち上がったときです。1991年に入社して3年目のことですが、契約更新の時期と重なることや外国人の従業員ということもあり、先のことを思うと不安でした。中国に戻るか、それとも戻る前にもう一度日本で仕事を探すか、帰国したら中国で何ができるのか、触媒を開発して化学メーカーをつくるか、と思案したものです。1ヵ月ぐらい、いろいろと考えているうちに、日本と中国の間で取引を行う商社があまりないことに気づきました。とはいえ、できることは化学の知識を生かしたコンサルティングぐらいしかなかった。そこで、11月に「21世紀商事」を立ち上げました。雇用の契約は翌年の3月末まで残っていたため、上司の勧めもあり、3月末まで三菱油化で働き、4月から本格的に21世紀商事の仕事を始めました。東京大学大学院修士課程に進学するため、1988年の2月7日に日本に初めて来たときから数えて、ちょうど6年経ったころです。
21世紀商事での仕事が
ハイケムの原点になっています。
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社長
- 最初の仕事は、4月に味の素から依頼のあった中国の塩化パラフィンに関するレポートでした。当時はまだインターネットが発達していない時代ですから、現地に電話して最新の情報を集め、あるいは資料を取り寄せて虹さんと二人でレポートをまとめました。その仕事で数十万円の収入を得ることができ、これで何とかやっていけるかなと。
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裕一取締役
- 当時僕は小学3年生でしたが、子どもながらによく覚えています。母は毎日のように夜遅くまで、パソコンに向かって翻訳の仕事をしていました。にもかかわらず一度、6〜7割仕上がったレポートを僕が誤って消去してしまって…その時はめちゃくちゃ怒られました(笑)。
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社長
- 同じく4月に知人から紹介のあった宇部興産(現・UBE)との商談の中で、DMC(炭酸ジメチル)を中国に向けて販売したいという話がありました。他の商社に頼んでいるがなかなか輸出先が決まらないといった内容です。そこで中国の友人の会社に連絡を取り、現地の専門知識をもったスタッフに調べてもらったところ、DMCの需要や販売先があることがわかりました。相談を受けて2ヵ月も経たないうちにDMCを大量に輸出することができました。依頼から販売まで非常に速く対応したその成功によって、UBEの二価フェノール系の化学品の輸出も任されることになりました。医農薬の中間体原料のカテコールをはじめ、他の十数品目のファインケミカル製品をいまでも取引させていただいています。5月に入ると、三菱ガス化学から新潟にある塩化コリンのプラントの話が持ち込まれました。中国からキャリアのコーンコブを輸入し塩化コリンを製品化して東南アジア向けに輸出するビジネスでしたが、円高の影響でコストが見合わなくなりプラントを持て余していました。そこで、その2万トン/年のプラントを解体して中国に移設し、現地で塩化コリンを製造することにしました。塩化コリンの成功のカギは、中国で製造した安価な製品を日本に輸入することで、日本のマーケットが確保できたことです。
発想の転換ですね。
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社長
- 三菱ガス化学にとっては、スクラップすれば億単位の費用がかかるところから、年間1億~2億円の利益を稼ぐ源泉となったわけです。発想を変えるだけで、マイナスからプラスになることを実感しました。この成功がのちの、同じく三菱ガス化学が新潟にもつ20万トン/年のメタノールプラントの移設にもつながったわけです。ハイケム設立の年(1998年)の話になりますが、このときは6隻の貨物船で運び出す大掛かりなプロジェクトでした。
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裕一取締役
- 現在も同じような事業をやり続けていますね。日本では競争力のなくなった事業、もしくは競争力を生み出せていない事業でも、中国にもっていけば競争力が出てくるのではないか、というアプローチはハイケムのビジネスモデルの基本的な考え方のひとつでもあります。
事業が軌道に乗る中、
ハイケムを設立されました。
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社長
- 設立は1998年の4月8日、仏陀の誕生日と同じです。余談ですが、その設立日は、当時大変お世話になった山田化成の山田 芳和社長に決めていただきました。なにかこだわりがあったようです。21世紀商事の最後の年は、6千万円程度の売上がありました。金銭的な余裕と事業が順調に拡大してきたこともあり、設立後の7月までに社員を3人迎え入れました。そのうちの1人が林 勁松専務取締役です。初年度の売上は仲介料を中心に1.8億円、利益は6千万円ぐらいありました。2年目から本格的な取引を開始し、売上は3.6億円、3年目に4.8億円、4年目は8.6億円でした。4年目からは、三菱化学(現・三菱ケミカルグループ)の先輩の方々の力を借りて取引が拡大し、また、日華化学に依頼された中国でのOEM事業が順調に伸びたおかげで、その後、15億円、20億円と売上が拡大し、約12年間で100億円まで成長しました。
成長のカギは何ですか。
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社長
- バブルがはじけた後の20世紀終わりごろは、日本の化学産業はコストが安い海外に事業の活路を見出そうとしていた一方、中国は改革開放政策のもと、外国の製造技術を渇望していて、OEM事業を積極的に受け入れている時期でした。お陰様でハイケムは常に多くの新しい商材を扱うチャンスがありました。医農薬原体や中間体、電子ケミカルやLIB用(リチウムイオン二次電池)の化学品といった、今日のハイケムの成長を牽引する商材です。中国での化学品OEMを拡大するにはQC(クオリティコントロール)が最重要課題であると考え、OEM候補先には品質管理の方法論指導や品質管理マニュアル作成をし、日本市場向けの品質管理がされた製品がつくれるように、足場の強いシステムを構築することに最も時間をかけて真剣に取り組みました。この地道な努力が品質要求の厳しい日本の化学産業の信頼を得ることに繋がり、噂を聞き付けた多くのお客様からお取引をいただくようになりました。いろいろな意味で、ハイケムは日中のお客さんの信頼があってこその存在であり、“天の時、地の利、人の和”に恵まれている会社です。
C1ケミカル事業への参入は、
ハイケムの歴史に欠かせません。
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社長
- 石炭化学が源流であるUBEと共同し、CO(一酸化炭素)と水素の混合ガスである石炭由来の合成ガスから、EG(エチレングリコール)を製造する技術(Syngas to EG)、つまりSEG®技術のライセンス供与を始めました。カーボンニュートラルや炭素循環といった時代の要請もあり、驚くほど事業が伸びてきています。現在、中国で合計1,000万トン/年程度の契約を交わしています。加えて、その製造工程で使われるパラジウム触媒と銅触媒をそれぞれ1,500トン/年、計3,000トン/年を中国・南通の自社工場で製造し、ライセンス供与先に提供しています。ここまで成長できたのは、UBEがもつ合成ガスからDMO(シュウ酸ジメチル)を製造する技術、DMOからEGをつくる技術を我々が買い取るのではなく、ライセンスのビジネスにしたことが一番大きい。
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裕一取締役
- 仮にUBEからDMOの技術を一括で買い取り、それ以降はUBEに一銭も入らないというビジネスモデルにしていたら、SEG®以外のライセンスにつながらなかったはずです。眠らせている技術でも、ハイケムに任せればひょっとしたら定期的な収入に変えてくれるかもしれない、という期待と信頼が得られたのではないかと思っています。競争力のない事業をいまさら自分たちで中国に拡販するのもしんどいし、それならハイケムに相談してみようかなと。こうした努力と成功事例の積み重ねが、日本で信用される理由の一つになっていると思います。
創業時からビジネスの上で
大切にされている想いとは。
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社長
- 一つは「共鳴・共生」です。ベンゼン環の共鳴構造のように、炭素原子同士の結合を小さな電子が取り持っているようなイメージになります。つまり化学品を扱うお客様同士の間を、ぐるぐる回ってうまく結びつけているのがハイケムです。そしてやはり、日本のお客様に対しては中国化学品のスペシャリスト、あるいは中国のお客様に対しては日本化学品のスペシャリストとして日中間の架け橋になることを、創業以来、常に心がけています。このほど、裕一はそれをうまくまとめて、「We are the BRIDGE」という新しいメッセージに落とし込みました。創業からの日中の架け橋という精神を忘れずに、これからより広い世界、多くの社会との架け橋となっていきたい、という想いが込められています。
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裕一取締役
- 今後も従業員はさらに増えていくだろうし、社会への発信機会も多くなっていくと思います。その際により伝わりやすいメッセージとして、シンプルに「We are the BRIDGE」としました。我々のアイデンティティは「架け橋」に集約されているからです。
そこには「技術の架け橋」も
込められている。
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裕一取締役
- 我々が取り組んでいるカーボンニュートラルやPLAのような生分解性材料といった技術は、将来を見据えれば、当たり前のこととして社会に実装されていると予測しています。もちろん環境配慮の観点も大きいですが、それ以上に経済性の面でサステナブルな原料や素材のほうが優位性は高くなってくると捉えています。当然、ビジネスとしても有利になるといえます。そのほかにも、自動車の電動化、AI(人工知能)の進展、宇宙時代の到来と、非常に大きな世界的な流れがあります。こうしたトレンドに対し、100年後か200年後か、500年後になるかはわかりませんが、我々のビジネスや技術が、未来の社会インフラ、その基礎の一つにでもなれたら素晴らしいと思います。未来へ向かって橋を一つでも架けられていれば、ハイケムがこの世に存在した価値が十分にあると思っています。
今年から、
2035年に向けた
新たな経営計画が始まりました。
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社長
- 今回は向こう12年間の長期的なビジョンを掲げ、4年ごと、3回の中期経営計画を実行していきます。創業初年度の売上高は1.8億円でしたが、12年目に100億円に達し、さらに12年で1千億円を超えるまでに成長しました。次の12年間は一桁上を狙い、売上高1兆円を目指します。これも裕一が「All for 1 for All」というスローガンにまとめました。
以前、高社長から伺った
「自分の心以上に、
人は大きくなれない」
という言葉が印象的でした。
最後に、
社員に伝えておきたいことは。
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社長
- 人間はなにが一番楽しいかと言えば、やはり希望があって、ワクワクできることではないでしょうか。好きなことをやらなければ苦痛になります。そういった意味で、自分がワクワクできることを見つけて、それに向かっていけば自然と仕事が楽しくなり、日々に満足できるようになると思っています。自分の限界をどんどん乗り越えて、自分自身を大きく成長させてください。そうすれば楽しくなる。そして、きっと心も大きくなり、周りの人ともその楽しさを分かち合えるようになるはずです。